異国の少女A


 ——私は日本に来たんだ。
 車窓を流れる、光り輝く夜に目を細めると、少女の胸にやっとそんな実感が湧いた。
 窓の外には巨大なビルがそびえ立ち、明るい夜空には飛行機が飛ぶのが見える。爆弾を落とす戦闘機ではない、少女も乗ってきたばかりの旅客機だ。
 難民キャンプで生まれた彼女は、ただ少しばかり外国人に気に入られる容姿をしていたため、そこから救い出されて、それからめぐりめぐってこの東の果て、日本という国に行くことが決まったのだった。
「大丈夫? 日本は少し寒いかしら。いまは冬だから」
 運転席に座った女性が、ゆっくりとした英語で少女に話しかける。英語は少し習っていたが、あまりよくわからなかった。けれど、少女の国の言葉を女性は話せないようだった。
「冬……?」
 繰り返すと、女性は笑った。
「そう、冬。日本には四季があるのよ」
 そう言うと、バックミラー越しに少女を見る。しわの寄った目元が優しそうだ。
『この女性は、NPOのカモカワさん。彼女が今日から君の世話をするのだ』
 彼女はそう聞かされていた。だから、彼女は少女をこの静かな車に乗せ、自宅へと連れて行く。いままで何人もの難民の少女が、彼女の世話になったのだという。
 難民キャンプから救われて一ヶ月の間、さまざまな人々が少女を助けた。食事を与え、洋服を変え、少女がまるでお姫さまであるかのような扱いをした。誰も彼女を殴ったり、レイプしようとしたりはしなかった。
 その経験から、少女は「カモカワさん」にすべてを任せればいいことを知っていた。彼女が何もしなくても、彼女は必要なことをしてくれる。食事も洋服も、彼女がすべて用意してくれるのだろう。
 少女は本当に運が良い。難民キャンプに残る、彼女の家族は少女を羨んだ。上の兄などは、一度ならずも二度三度と彼女を棒で打ち付け、殺そうとした。彼女が死ねば、救い出される幸運は自分に回ってくるかもしれない、そう思ったからに違いなかった。
 そういう意味で言えば、幸運を嗅ぎつけたキャンプ中の人間が彼女を付け狙っていた。彼らは彼女以上に救い出されることの幸運を知っていた。
 なぜなら、彼らの中にはテレビを見たことのある者がいた。テレビとは、遠くの景色を映し出す優れた機械だった。そして、それを見たことのある者によると、そこにはいつでも夢のような世界が広がっているのだった。
 大きな車、大きな家、緑色の美しい庭、巨大なビルにチリ一つない整然とした道路、それからたっぷりとした食事の乗ったテーブルを囲む幸せそうな家族!
 テレビの中に映し出されるその遠い国の生活は、彼らに絶望的なほどの不平等を感じさせた。
『なぜ?』
 彼らは口々に画面に向かって叫んだ。
『なぜ、我々はこういう生活が出来ない?』
『彼らは大きな車に乗っている』
『大きな家も』
『清潔で美しい町!』
『幸せそうな家族!』
『だというのに、なぜ?』
 彼らは破壊された建物を、そこら中にゴミや糞尿のまき散らされた地面を、お腹を空かせたたくさんの子供たちを見回した。そして、やはりこう叫んだ。
『一体、これはなぜなんだ?』
 けれど、そう叫んではいても、彼らの胸には確固とした答えがあった。
 なぜ、彼らがこんな汚い貧乏生活を強いられているのか。
 彼らが考えるに、それは国が貧しいせいだった。戦乱が絶えず、仕事がないせいだった。町が汚いのはトイレがないせいで、七人の子供たちがいつも腹を空かせているのは、食べものが十分にないせいだった。だから、彼らにできることといえば、一日中ぼんやりと寝転び、時折神に祈ることだけだった。
『俺は、この夢の国に行く』
 しかし、彼らの中の何人かはそう言い、夜に乗じてキャンプを抜け出した。
『あのテレビに映った国、あそこにさえ行けば、俺にも大きな車と、大きな家と、たっぷりの食事が手に入る。そうなったらお前たちを迎えに来るから待っていろ。そうとも、あの大きな車で迎えに来るから』
 そう彼らの家族に言い聞かせて。
 その彼らがどうなったのか、少女は知らない。けれど、きっとその言葉通りになったのだろう。夢の国は、彼に大きな家と大きな車を与えたに違いない。
 そのときのテレビに映ったのが、この日本かどうか、少女は知らなかったが、彼女はそんな確信があった。
 なぜなら、「カモカワさん」は、いまからその夢の生活を少女に与えようとしているのだ。「これが普通の暮らしなのよ」、美しいホテルの部屋や清潔なトイレに目を丸くする度、彼女は少女にそう言うのだから。
「さあ、ここが私の家よ。まずは家族に紹介するわね。あなたが独り立ちできるようになるまで、私たちは一緒に暮らすのよ」
 「カモカワさん」は、自分の家だという一戸建ての前でそう言った。彼女はまだ大きい家を少女にくれるつもりはないらしい。少女は少し失望した。けれど、いつかは当然くれるはずだ、そう思って気を取り直す。
 大きな家をもらったら、少女はもちろん、そこに家族を呼ぼうと思っていた。自分を殺そうとしたあの兄は呼びたくないけれど、来るというなら仕方がないだろう。どのみち、あの兄と一緒に住むことはない。
 もし家族を呼んだら、「カモカワさん」はまた人数分の新しい家を用意してくれるだろう。きっと両親は喜び、少女を誇りに思うはずだ。そう思うと、彼女はいまからそのときが待ち遠しかった。
 少女が暮らしていた難民キャンプは、家と呼ぶにはあまりにひどい場所だった。まともな屋根や壁もなく、吹きすさぶ砂嵐に息が出来なくなって死ぬ人もいた。
 日本では砂嵐などは吹かないだろうが、それでも並んでいるのはどれも立派な家ばかりだ。「カモカワさん」は玄関のドアを開けた。
「ただいま……ここで靴を脱いで、遠慮しないで上がって」
 「カモカワさん」は笑う。真っ白な壁、ピカピカの床板。小さなテーブルには花すら活けられている。まさに夢の世界だ、少女は夢見心地で彼女の後についていく。
「どうぞ、ここがリビングよ」
 「カモカワさん」が、貴人を迎え入れるようにお辞儀をする。そこに開けた光景を見て、少女は感嘆した。
 大きなテーブルの上には食事が用意されていて、その隣で「カモカワさん」の家族が微笑んでいた。そして、少女を一番上等な席に導いた。少女は我を忘れて目の前の食べものにがっついた。
 もちろん、それを咎める者は誰もいない。なぜなら、少女は夢の世界のお姫さまだからだ。そしてこの夢の国、日本は、彼女の望みをすべて叶えてくれるに違いなかった。

「おはよう、コーヒーはどう?」
 お姫さまにふさわしいふかふかのベッドで眠り、目覚めて階下へ降りていくと、「カモカワさん」の夫が優しくそう言った。
 彼は男性ゆえに少女は一瞬身を固くしたが、どうやらそれは必要ないようだった。
「大丈夫だよ」
 彼も「カモカワさん」と同じように優しく言い、コトリ、コーヒーカップを彼女の前に置いた。お姫さまに乱暴する人間はいないのだ、少女は理解するとその苦くて甘ったるい液体を飲み干した。すると、すぐにバターの溶けたトーストと、黄金色の卵焼きが並べられた。
「故郷の味が恋しいかもしれないけど」
 「カモカワさん」の夫はそう言い、困ったように笑った。しかし、少女は彼が何を言っているのかよくわからなかった。故郷homelandの味など恋しいはずがない。どちらかを選べと言われたら、難民キャンプの十万人が十万人、この朝食を選ぶだろうと彼女は思った。
 おはよう、すると次に起きてきたのは「カモカワさん」の娘だった。彼女の黒い髪はまっすぐで美しく、少女は少し嫉妬を覚えた。けれど、いくら髪が美しくても、彼女は彫りが浅く、その上、一重で冴えない目をしていたから、私のほうが美人だろうと少女は思った。
 美人は襲われやすくもあるが、強い男の庇護を受けられるという得もある。キャンプから救い出されたのも少女の容貌のせいだと思えば、美醜は生きていく上でとても重要な要素だった。
 娘は少女と目が合うと頭を下げた。どうやら、彼女も「カモカワさん」に少女を貴人として扱うよう、言い含められているらしい。その態度に満足した少女は、一心不乱に朝食を腹に収めた。彼らは日本語で何やら会話していたが、少女は全く気にしなかった。姫は周りを気にせず、堂々としていればいいのだ。

 少女が日本に来て、二ヶ月が経った。
 その間、彼女は学校に行くことはなかったが、「カモカワさん」やテレビの助けで、少しずつ日本語を習得するようになっていた。日本語を話せなければ、日本で暮らすのは難しい。いくら彼女がお姫さまの扱いを受けていても、それくらいは理解できた。
 そんなある日のことだった。玄関のチャイムが鳴った。少女が二階にある部屋の窓から覗くと、そこには数人の年配女性が立っていた。それは、以前もこの家にやってきた人々だった。そのとき、彼女たちはなぜなのか「カモカワさん」に声を荒げていた。それ覚えていたのだ。
「すいませーん」
 チャイムだけでは飽き足らず、女性の一人が声を上げた。すいません、は知っている。謝ったり、挨拶をする言葉だ。この場合は、謝るのではなく、挨拶なのだろう。
 じっと見下ろしていると、「カモカワさん」が玄関に出た。何事か話し出す。女性たちはやはり怒っているようだ。「カモカワさん」に紙を突きつけ、何か言っている。
 と、そこへ「カモカワさん」の娘が帰ってきた。「マユミ」だ。軍隊のような服を着ているのは、それが学校用の服だかららしい。「マユミ」はあからさまに嫌そうな顔をして、女性たちをすり抜けようとする。その腕を一人の女性が掴んだ。
「私たちだって我慢してるんですよ!」
 少女はその断片を理解した。「我慢して」の部分だ。これはよく「カモカワさん」が使う言葉だから覚えている。例えば、この部屋に少女を案内したとき、また洋服を差し出すときに「これで我慢してね」と言うのだった。
 察するに、それは少女を貴人として十分にもてなすことができないときに発せられる言葉だった。ということは、押しかけた女性たちは、「カモカワさん」から十分なもてなしを受けられなかったのだろうか。
「お宅の子だって、いつ被害者になるかわからないんですよ!」
 怒った女性たちが「カモカワさん」に詰め寄る。見当もつかない言葉に、少女は耳を澄ませた。
「いまうちで預かっている子は女の子ですし、すべての難民がそういった犯罪を犯すわけじゃありません」
 「カモカワさん」が答える。
「たった一人の難民の犯罪を取り上げて、危険だというのは間違っています。日本人だって犯罪を犯すんですよ!」
「けど、育ちも文化も何もかもが違う国から来たんですよ! 日本人に考えもつかないことをしでかすこともあるでしょう!」
 女性の一人が応戦する。
「この性犯罪だって同じです! あちらじゃ、女性をレイプしたり暴力を振るったりすることは、罪にもならない、普通のことなんですってね? だから、難民はいろいろな国で問題を起こしてるんだとか」
「母体が多いんです、中には残念ながら、そういう人もいるでしょう。けど、そういう人たちがすべてじゃないということを、日本人も知るべきで——」
「私にはデンマーク人の知り合いがいます。だから、あなたよりも難民を受け入れた国の現実を知っています! いいですか! 彼らは国を食い荒らす寄生虫です! 働きもせずに優雅な暮らしが出来ると思って国を逃れてきてるんです!」
「そんなはずがありますか!」
 「カモカワさん」は悲鳴のような声を上げた。少女には彼女たちが何のために言い争っているのかわからない。日本には銃がないと聞いていたが、どちらかがどちらかを殺すのではないかと気が気ではなくなった。「カモカワさん」の様子はそれほど鬼気迫っていた。
「あなたたちはあの子のことを……私がいままで家に置いた子たちのことを何も知らないからそんなことが言えるんです! あの子たちは、日本に来て優雅な暮らしが出来るなんてことは、これっぽっちも考えていません! ただあの悪夢のようなキャンプ生活から抜け出したくて、私たちの手を借りているのです」
 「カモカワさん」は叫んだ。
「彼らは食事だって満足に取れないし、学校なんて夢のまた夢です。女の子はレイプされ、男の子は兵隊に駆り出される。そんな日常があなたたちに想像できますか? できないでしょう? 当たり前のようにすべてが享受できる日本に生きている人には!」
 それから、と「カモカワさん」は続けた。
「デンマークにお知り合いがいるそうですけど、そのお知り合いは助け合いの精神を知らないのですか? それに難民は働かないのではなく、働けないんです。ヨーロッパは不況でデンマーク人だって働けない人がいるはずです。なぜあなたは仕事のないデンマーク人を責めずに、右も左もわからない難民を責めるのですか!」
「それは……だって、いきなりきて家も仕事もよこせだなんて、ずうずうしいでしょう」
「それがあなたたちの本音ですね」
 たじろいだ女性に、「カモカワさん」は勝ち誇ったように言った。
「あなたたちは彼らが来ることで、自分たちが割を食うと思っているんです。社会保障も、年金も……あさましいのはご自分だとは思われないんですか?」
「——今回は、預かられてるのが女の子ということですから、いいですけど」
 女性たちの一人がじろりと「カモカワさん」を睨み付けた。
「抗議は町内会に出しておきますからね! これ以上近所に迷惑をかければ——」
「迷惑などかけているつもりはありませんが」
 「カモカワさん」は突っぱねるように言った。どうやら争いは物別れに終わったようだった。女性たちは踵を返し、「カモカワさん」と「マユミ」が家に入ってくる。
 あれは一体何だったのだろう、少女はそっと部屋の外をうかがった。すると、ちょうど階段を上ってきた「マユミ」と目があった。いつものようにお辞儀をすると思いきや、彼女は一言もなしに、少女の鼻先を通り過ぎた。真っ直ぐで美しい髪の残り香が廊下に残された。

 それからさらに三ヶ月経った。
 少女は簡単な日本語の会話をこなせるようになっており、ニュースキャスターの言うことも、ところどころならわかるようになってきた。一日中、テレビと向き合っていたおかげだろう。
 初めの二週間ほどは、一日中少女の傍にいた「カモカワさん」も、時間が経つにつれ、少女を一人家に残し、どこかへ出かけるようになっていた。「カモカワさん」の夫もそれは同じで、彼は夜になっても帰ってこないことがままあった。
 「マユミ」はたいてい朝から学校へ通い、夕方頃に帰ってくる。しかし、彼女はあまり少女の相手をしようとはしない。この頃になると、少女は「マユミ」に避けられているのではないかと感じるようになってきた。彼女は母親である「カモカワさん」が少女を敬うため、それを形だけ真似ているに過ぎないのだ。
 けれど、少女がそれを気に病むことはなかった。なぜなら「マユミ」にどう思われていようと、実害など何もない。部屋にこもりがちの彼女とは裏腹に、少女はいつでもリビングで過ごすようになった。

 それはいつものようにリビングでテレビを見ていたときだった。ニュース番組で見慣れた映像が流れた。それは難民キャンプだった。彼女がいた場所とは違うが、それは同じ場所かと見まごうほどよく似ていて、少女の心に望郷の念を思い起こさせた。
「難民キャンプでは、いまもなお大勢の人たちが暮らしています」
 日本人のリポーターが難しい顔をしてそんなことを言っていた。
 乾いた風、埃だらけの空気、画面からは伝わってこないが、あの糞尿の入り混じった独特の臭い。一瞬で、少女の心はあのキャンプの中に戻っていた。
 やかましい戦闘機の音、あちこちで聞こえる咳、することもなくだらりと寝そべった大人たち。
 映るはずがないと思いながらも、少女はその中に家族の姿を探した。父親に母親、それから兄たちに妹たち。
 こうして元いた場所を振り返ると、日本は神様の寵愛を一身に受けた国だった。赤ん坊を抱いたあの母親の生気のない目!
 彼らはどうして救われないのだろう。誰が彼らを救わないと決めたのだろう。彼らは本当に救われないのか? 少女は考えた。それからすぐに首を振った。いいや、そんなはずはない。あの人たちだって、私と同じように救われるべきだ。
 少女の心ははやった。脳裏にあるイメージが浮かんだ。それはモーセの図だった。エジプトから奴隷を解放し、海を割ってファラオから逃れたあの偉大なモーセ。
 少女の信じる宗教がなんであったか、そんなものは関係がない。モーセはユダヤ教でイスラム教でキリスト教で、最も重要な預言者の一人なのだ。
 とにかく、彼女の頭に浮かんだのは、そのモーセの図だった。彼が先頭に立ち、奴隷たちを導くあの場面だ。
 ——乳と蜜の流れる地カナンへ。
 あのとき、モーセはそう言って、彼らを先導したのだった。そして、砂漠を越え、その地にやっとたどり着いた。
 あの難民キャンプから脱出し、生まれて初めての電車や飛行機を乗り継いで、やっとのことで少女がこの地にたどり着いたように。
 ——日本カナンへ。
 天啓を受けたように、少女はそこに直立した。少女はいわばモーセだった。あの難民キャンプの誰よりも早く日本カナンの地を知り、たどり着いた預言者だ。
日本カナンへ」
 少女はつぶやいた。繰り返しつぶやいた。声はだんだん大きくなった。
 日本へ。少女は旗印を上げなくてはならなかった。難民キャンプの皆を引き連れ、日本に来なければならなかった。
 なぜなら、日本に来さえすれば、こんなに優雅な生活が待っている。食べものの心配も病気にかかる心配もなく、清潔な家で眠り、一日中好きなことをしていれば良かった。そうしていたって、ここでは生きていけるのだ。
 「カモカワさん」に言えば、難民の数分の新しい家ももらえるだろう。何せ、この国には数え切れないほどの家が建っているのだ。そのほんの少しを少女たちに分けたところで、何も変わりはしないだろう。
 大きな家に大きな車。難民たちの夢がここにはすべてそろっているのだ。
「ただいま」
 そのとき「カモカワさん」の声が聞こえた。すぐに腕にいっぱいの食料を抱えた「カモカワさん」がリビングに入ってきた。
 マユミは? 、「カモカワさん」が聞く。少女は二階を指さすのももどかしく、たどたどしい日本語で言った。
「カモカワさん、わたし、みんな、呼ぶ」
「ん? どうしたの? みんなって誰のこと?」
 「カモカワさん」は荷物を下ろし、少女に向き直る。少女は懸命に説明した。
「わたしの両親、兄、妹、みんな。みんな日本にくる。みんな暮らす」
 すると、「カモカワさん」は悲しそうな顔をした。
「家族が恋しくなった? まあそうかもしれないけど、乗り越えなきゃ」
 どうも話がうまく通じていないようだ。
「ちがいます。わたしの両親、みんな呼ぶ。みんな日本。みんな幸せ」
 今度はうまく伝わっただろうか、少女が反応を待っていると、背後で馬鹿にしたような声が聞こえた。「マユミ」だった。
「みんなだって。みんななんて連れてこれるわけないでしょ、何言ってるの、こいつ」
「こら、何てこと言うの!」
 「マユミ」の言葉に、「カモカワさん」が怒る。「マユミ」の言葉は早く、うまく聞き取れないため、何と言ったのかはわからないが、「カモカワさん」に怒られたのだから神を馬鹿にするような言葉を口走ったのだろう。
 時々、「マユミ」はこうして怒られては黙ることを繰り返す。けれど、今日の「マユミ」は黙らずにさらに言い返した。
「だってみんな連れてくるとか、何言ってんの? そんなことできないに決まってるじゃん。幸せとか、無理でしょ」
「幸せ、なる」
 ようやく言葉の断片を聞き取って、少女は言った。すると「マユミ」が、どうやって、と少女を睨む。彼女は懸命に言葉を選んだ。
「日本、いい国。だから、みんな、来る。カモカワさん、家をくれる。みんな暮らす」
 すると、どうしたことか「マユミ」は笑った。
「家をくれる? 何言ってんの、マジで? ママ、こいつらに家あげるって言って連れてきたの? マジ勘弁なんだけど」
「そんなこと言ってないわよ」
 「カモカワさん」は困ったように言うと、少女を諭すようにゆっくりと言った。
「ごめんね、私たちはあなたで精一杯なの。精一杯。わかる? 難民申請も厳しいし、これ以上はなかなか呼べないのよ」
「なぜ? 日本、たくさん食べもの。たくさん家。なぜ、わたしの国にはない、でもここ、ある。なぜ、だめか?」
「なぜだって」
 「マユミ」は耳障りな笑い声を上げた。思えば少女は最初から彼女のことが嫌いだった。少女はいつでも「マユミ」を我慢していたのだ。
 だというのに、「マユミ」は言った。
「いい? ママたちは慈善事業をやってるけど、食事とかならまだしも、何にもしない人に家をあげるとか、そんなことできるわけないでしょ? 日本が豊かなのは、日本人が一生懸命働いてるからだってわかんないかな?」
「働く?」
「そうよ」
 「マユミ」は馬鹿を見るような目つきで少女を見た。
「ママやパパが朝から晩まで働いてるから、日本は食べものとか家があるわけ。ってか、それすらもない日本人だっているんだけど」
「マユミ、やめなさい」
 「カモカワさん」が怒る。けれど、「マユミ」はやめなかった。
「家の手伝いさえ何にもしないで一日中テレビ見てるんだから、そりゃ夢の生活だよね。将来の仕事のために一生懸命勉強したり受験してる日本人とは大違い」
「あんた、何言ってんの! まさか、カワノさんたちに変な入れ知恵されたんじゃないでしょうね!」
「言っとくけどね、あのおばさんたちの言うことも一理あるとあたしは思ってるよ? そりゃ戦争で国を追われて、可哀想は可哀想かもしれないけど、だからって他の国にたかるってのは違くない? だったら自分たちで何とかしろよ、みたいな?」
「戦争を個人が何とか出来るわけないでしょう! あんたは平和な国に生まれたからそういうことが言えるのよ!」
 いつかのときのように、「カモカワさん」が叫ぶ。「マユミ」はそれとは反対に、冷たい声を出した。
「だって、難民ってすごいたくさんいるじゃない。国が戦争してるって言ってもさ、あの人たち全員が一致団結して立ち上がれば、戦争なんか止められるんじゃないの?」
「こんなのが我が子かと思うと、まったく情けないわ……」
 「カモカワさん」はがっくりとテーブルに顔を伏せる。泣いているのだろうか。さすがの「マユミ」もこれには黙る。
 早口でまくしたてられる二人の会話が半分も理解できなかった少女は、もう一度、自分の要望を口にした。
「カモカワさん、みんな、来る。家、くれる?」
 すると、「カモカワさん」は顔を上げた。その目は涙で濡れていた。
「ごめんね、あなたたちに家はあげらないの。でも私たちはあなたが自立できるようにサポートするわ。学校へ行って、就職して……もし故郷へ帰れなくても、日本で生きていけるように」
 彼女はゆっくりとそう言ったが、少女はその半分も聞いていなかった。家はあげられない、その言葉に少女は愕然としていた。なぜ彼女がそんなことを言い出したのか、少女には全くわからなかった。
「家、ない? なぜ?」
 ここは日本カナン、豊かな国。テレビの向こうにある夢の世界。大きな家と、大きな車を誰でも持つことが出来る世界。
「なぜ?」
 少女は繰り返した。それはこれ以上ないほどの単純な質問だった。なぜ、あなたたちはこんなに持っているのに、なぜ、それを私たちにくれないのか?
「なぜって……」
 「カモカワさん」は涙を拭った。
「なぜじゃないわ。でも、あなたが頑張って勉強して、頑張って働けば、いつの日かあなたは自分の家を買えるようになるわ」
「なぜ?」
 しかし、それでも少女は繰り返した。頑張って勉強するとはどういうことだ? 頑張って働くとはどういうことだ? 
 学校へ通ったことのない少女には、勉強の意味がわからなかった。仕事のない難民キャンプで育った少女は、大人たちが働いているところなど見たことがなかった。そのどちらの概念も、彼女には縁のないものだった。
「なぜ!」
 少女は叫ぶと、テーブルを叩いた。それでも何も起きないと知ると、食料の入ったバッグをひっくり返した。中からは野菜や肉や魚や、難民キャンプでは決してありつくことの出来ない食料があふれ出した。
「なぜ!」
 それを見て、少女はまた叫んだ。悔しさに涙が溢れた。ここは豊かな国だが、住んでいる人々は恐ろしいほどケチなことに気づいたのだった。彼らはこんなにのだというのに、少女たちには何一つ分けてはくれないのだ。
「なぜ!」
 少女は叫び続けた。叫ぶ度に、何かを放り投げ、何かを壊し、部屋の中をめちゃくちゃにした。その様子を、「マユミ」は目を丸くし、「カモカワさん」は何とか彼女を止めようと手を伸ばした。
 しかし、少女は叫ぶことをやめなかった。その痛々しく悲しげな声は、いつまでも住宅街にこだましていた。