ヒーロー


 佐伯という表札のかかった、その家に住む男が出かけるのを見計らって、彼はそっと敷地内に侵入した。
 キョロキョロと辺りを見回してはいるが、泥棒に入ろうなんて魂胆は持ち合わせていない。言うなれば、彼はヒーローだった。この家の離れに閉じ込められている、可憐な少女を救出するためにやってきた――。
 事の始まりは、一枚のメモだった。
 「助けて下さい」、メモにはそう書かれていた。下手な字だった。まるで子供の字のような。
 その日は、彼にとっての記念日だった。というのも、彼は二十歳の時から引きこもり生活をしており、十年ぶりに外へ出たのだ。そして、そのメモを拾った。
 これは人生を変えるチャンスだ、彼は思った。
 少女誘拐監禁事件。テレビのニュースで、そういう事件が起こっているのは知っている。このメモの主もそう、そんな事件の被害者なのだろう。瞬時に、『引きこもり青年が少女を救う』、そんな見出しが頭の中で躍った。
 彼はその日から、メモを拾った辺りをうろついた。監禁場所はすぐにわかった。そこはいかにも怪しげな若い男が出入りする離れだった。叫び疲れているのだろう、枯れた高い声で「助けて」という声を聞いたときには、体に震えが走った。
 よし、俺がいま助けてやるからな!
 男が戻ってこないことを確かめると、彼は目当ての離れに駆け寄り、ドアを開けようとした。内からではなく、外から鍵がかかっている。やはり少女は閉じ込められているのだ!
 早鐘を打つ鼓動を感じながら、彼は裏手の窓に向かった。台所の小さな窓だ。そこから、「助けて」、あの声がする。小さな人影が見える。
「いま、助けますからね!」
 彼は思い切って窓を破った。きゃあ、という悲鳴。と、その悲鳴の主を見て、彼は思わずポカンとした。心臓の動悸が収まっていく。

「佐伯さんのお婆さん、認知症がまた進んだんじゃないかしら?」
「ああ、あの『助けて』って声ね。本当、あの声聞くといたたまれないわ。あそこから出してあげたくなっちゃう」
「でも、施設も順番待ちだし、一人で徘徊するほうが危険でしょ。しょうがないわよ」
「そうね。けど、面倒見てるのお孫さんでしょ? よくやるわよ、若いのに――」
 肩を落として引き返す彼の耳に、近所の噂話が聞こえた。また十年くらい引きこもろうかな――彼がそう思ったのも当然の話であった。