約束


 あ、と思ったときにはもう、バレリーナのように伸ばしたつま先に砂は触れず、私は両手をバンザイの形に上げたまま、波の間にするりと飲み込まれた。
 空は青く、海は硝子のような水色をしていた。ぶくぶくと吐く泡が、いまは天井となった水面に向かって泳いで行って、私のお尻は海底に触れた。少し冷たい、白い砂。太陽が遠くなったその場所で、
(死んじゃうのかな)
 私はそう思った。

 小学校三年生の夏。忙しいお父さんの少ない休みに、どうしてもとおねだりをして連れて来てもらった海水浴。焼きそばもかき氷も食べて、とっても楽しいはずだったのに、こんなところで死んじゃうなんて絶対嫌だ。
 そう思いながらも、不思議と落ち着いた気持ちでいたのは、見上げる水面が果てしなく遠く、とても届く気がしないからだった。実は、私は泳げないのだ。それなのに、海に入るなら浮き輪をつけなさいというお母さんの言いつけを破ったのは、それじゃカッコ悪いと思ったからだ。でも、こんなことになるのなら、ちゃんと浮き輪をつければよかった――塩辛い水の中で、私は塩辛い涙を流した。ぶくぶくと、肺から最後の空気が出て行く。私が死んだら、お父さんもお母さんも、小さな弟も、学校の友達も泣くだろうか。ぎゅっと閉じた目から、再び涙が海水に混じったときだった。ふっと呼吸が楽になった。続けて、りるりると小鳥の鳴き声のような音が、耳元で響く。何だろう――私は目を開け、驚いた。
 私の周りには、水がなかった。あるのは空気で――その証拠に、私は深い呼吸をした――髪から、体から水滴は滴り落ちており、その水滴は私の周りの空気の層から、外・の海へと染み出している。そうして気がつくと、私は海中を漂う、空気の塊の内側にいるのだった。まるで、大きなシャボン玉のような――。

 りるりる。例の音が再び聞こえ、私は驚いた顔のまま首を巡らせた。大きな魚の尻尾が視界を横切る。それを追いかけるように、さらに目を凝らすと、そこにいたのは人間だった。違う、二つは同じものだ。魚の尻尾を持っていて、かつ、人間の女の人の顔を持っている。つまり――人魚。
 りるりる。目を見開いた私を、人魚は笑った。たぶん笑った、のだと思う。私が驚いたのが面白いのか。それから、人間が珍しいのだろう、首をかしげるようにしてこちらをじっと見つめた。私の小さな弟が、どこからか捕まえてきた虫を眺めるように。
「私を陸へ帰してくれない?」
 思い切って、私は言った。弟はいつも、捕まえた虫を放ったらかしにして死なせてしまう。それを思い出して急に不安になったのだ。
 りるりる。人魚は答えた。どうしようかな、と言ったようだった。人魚の年齢は分からない。しかし、その肉を食べると不老不死になるという彼女たちは、その寿命も人間よりははるかに長いのだという。
「ねえ、お願い。私、まだ九歳なの。もっともっと大きくなって、お母さんになって、おばあちゃんになって、そんな風にもっともっと生きていたいの。お願い。あなたの望みは、何でも聞くから」
 りるりる。人魚は答えた。わかった、とそう言ったようだった。その証拠に、人魚は両手を突き出し、私を包む空気の玉をふわりと押した。玉はゆらりゆらりと水面を目指して進んでいく。りるりる。音に振り向くと、海底の人魚が、約束だよ、と手を振った――。

 そのあと、私は病院で目を覚ました。お父さんとお母さんは泣いて喜び、小さい弟も私の名前を叫んで飛び回った。心臓が止まり、脳波も検出されなくなった私の目覚めを、お医者さんは奇跡だと称賛した。それはマスコミにも取り上げられ、お母さんはその日の新聞を記念に何部も購入した。その新聞はいま、私の手元にある。
 生き返った私は、人魚のことを誰にも漏らしたことがなかった。もし、両親に告げたとしても、夢だろうと笑われるだろうと思ったし、それに何より私自身が此岸と彼岸の間を漂った折の夢であろうと、そう思ったからだ。けれど、一人暮らしをするときに、実家から持ち出したその新聞を読む私の手は、先ほどから震えが止まらなかった。
 それは海で溺れた女の子が生還したという私の小さな記事よりも、さらに小さな、隅っこの記事が原因だった。「打ち上げられた人魚?」と題されたそれは、人魚のようなものが砂浜に打ち上げられ、騒ぎになったという記事だった。それは魚のような、人のような、しかしすでに腐った死骸は骨までボロボロで、警察は人間ではないと判定した。その結果に、記者は冗談混じりか「不老不死の人魚は死ぬことがないのだから、死骸が浜に上がることもないだろう」と結んでいる。
 私はそれをしばらく見つめた後、封印するようにそれを元通りに折り畳んだ。
 打ち上げられたのは、あのときの人魚に違いないと、私は直感で悟っていた。私を助けた人魚は死んだ。しかし、それはなぜだ。
 そう考えたとき、否が応でも自分の言葉が耳に蘇った。あなたの望みを何でも聞くと、私はあの日、そう人魚に約束したのだ。そして、その約束が人魚を殺した――私にはそう思えてならなかった。不老不死である人魚の寿命は、途方もなく長い。その長い寿命に飽き果てた彼女が、彼女が生きるべき時間を私に与え、安らかな死を迎えたのだとしたら。彼女の死にたいという望みと、私の生きたいという望みが、あの深い海の底で交錯したのだとしたら。
 未だ震える手で、私はコーヒーカップを口に運んだ。中身はいつの間にか、冷めている。時計を見上げ、私は椅子から立ち上がった。
 人魚の望みと、私の望み。それはただの思い過ごしかもしれない。けれど、もし、そうだとしたら。あの日の望み通り、私は九歳よりも大きくなり、大学を出て、社会人となった。これからもきっと、思い描いた通りの人生を――夫となる人と巡り会い、お母さんとなり、そしておばあさんになるに違いない。けれど、その先は? 人間ならばそこで終わるはずの命を、私はどこまで生きればいいのだろう?
 背筋の悪寒を笑うように、ドアの外は蒸していた。セミがうるさく鳴いている。夏の日差しに眩暈を覚えながら、あれが白昼夢であるようにと、私にはそう願うことしかできなかった。