現代狼少女譚


「おい、加賀、聞いてるのか? お前のことを話してるんだぞ!」
 ドン、目の前の机が叩かれた。加賀かが炯子けいこは夢から覚めたように三沢の顔を見た。
 下がり眉に厚いくちびる。四角い顔はカエルに似ていて、見れば見るほど滑稽だ。
『三沢先生はカエルじゃないよ、どっちかっていうと熱血ゴリラみたいな?』
 クラスメイトはみんなそう言う。けど、この顔はどう見たってカエルに違いない。笑いを堪えて炯子は思う。
「何笑ってんだ!」
 カエルの三沢が真っ赤になってわめき立てる。緑のカエルが赤くなった、その姿は余計笑いを誘う。
 クスクス笑いをやめない炯子に、三沢は呆れたようにため息をついた。
「もういい。とにかく……今後はこういうことのないようにな」
 そう言い残すと、生徒指導室を出て行く。三沢先生、ちょっといいですか、扉の前で待っていたらしい生徒――二組の江藤陽太だ――がさっそく三沢に話しかける。
 ちらり、扉の隙間から炯子の顔を見て、見てはいけないものを見てしまったとでもいうような表情をする。
「あ、もしかしてまだ……」
「いや、いま終わったところだ」
 三沢が首を振る。その言葉に、ムズ、炯子の中の虫が騒いだ。考える前に、甲高い声が口から飛び出した。
「ええ、先生、まだ全然話終わってないじゃないですか」
「え?」
 ギョッとしたように振り返る三沢と江藤。
「今日は夜までたっぷり説教してやるから、楽しみにしてろってそう言ったのに」
 中学生が朝まで先生と過ごすのは良くないだろうと思い、「夜まで」という冗談を言ったというのに、二人とも気まずそうに炯子から目をそらす。
 つまらない人たちだ。
 炯子はため息をつくと、三沢の脇をすり抜け、さっさと指導室を出た。
「……狼少女」
 江藤陽太がぼそっとつぶやき、ややあって三沢の、
「お前、ちっとも反省してないじゃないか!」
 という大声が廊下に響き渡った。

 狼少女、というのは、クラスメイトが炯子につけたあだ名のようなものだった。
 それは小学校四年生のころだっただろうか。
 帰りの会で、一人の女子が手を上げた。
 クラスで何か話し合いたいことがあるときには、そうするシステムなのだ。音楽会の曲決めや、運動会のリレー選手も、この帰りの時間を取って決められる。
 ともあれ、挙手した女子はなぜか炯子を指さした。
『先生、今日、加賀さんが私に嘘をつきました。加賀さんはいつもみんなに嘘をつきます。だから、それをやめて欲しいと思います』
 炯子は驚いた。なぜなら、身に覚えがないことだったからだ。
 教室もざわついた。
 しかし、それは女子の意見に驚いたからではないらしかった。あちこちから、『いまさら?』とか、『いつものことじゃん』という声が上がったからだ。
『はい、みなさん、静かに』
 困ったように先生が立ち上がった。それから、糾弾した女子と、指差された炯子を交互に見た。それからため息交じりに聞いた。
『笠原さんは、加賀さんに何を言われたのかな?』
『私が、今日の掃除当番がどこかって聞いたら、加賀さんは「外庭だよ」って言いました。けど、行ってみたら外庭の当番は違う班の人でした』
『それは本当、加賀さん?』
『言いましたけど、冗談です』
 驚いて炯子は答えた。冗談が通じないなんて、つまらない人だ。
 けれど、先生はやはり困ったように首をかしげた。
『冗談っていうのは、言われた人が冗談だって分かって楽しめるもののことを言うの。だけど、この場合、笠原さんは加賀さんの言ったことが冗談だって分からなかった。だから、加賀さんの言葉は嘘になってしまったの。わかる?』
『わかりません』
 炯子は素直に答えた。そして、怒ったような顔をしている女子――笠原美絵を振り返った。
『だって、掃除当番がどこかくらい、人に聞かないで自分で表を見ればわかるじゃないですか。それなのに人に聞いて、冗談で返したら怒られるなんて、そんなのひどいです』
『笠原さんが自分で見なかったのは悪いかもしれません。でも、嘘をつくことはないと思います』
 笠原美絵といつも一緒にいる、渡辺心桜が発言する。
『嘘つきは泥棒だってママも言ってました』
『嘘つきは泥棒の始まり、ね、渡辺さん』
 先生が訂正を入れる。
『渡辺さんの言うとおり、笠原さんも自分で表を確かめれば良かったわね。けど、加賀さんも知っていたなら嘘をつかないで、今度はちゃんと正しいことを教えてあげてね』
『私は嘘なんか言ってません。冗談です』
 炯子は憮然として主張する。すると、先生は作ったような笑顔を向けた。
『……じゃ、冗談でも嘘はつかないようにね』
『だから、私が言ったのは嘘じゃなくて――』
『加賀さん、それからみんなも、狼少年の話を知ってる?』
 炯子を遮って、そのとき何を思ったか先生がクラスに呼びかけた。知りませーん、面倒くさそうな返事が返ってくる。
『昔、あるところに羊飼いの少年がいたの。羊飼いっていうのは、羊の群れを率いて草を食べさせたり、狼が群れを襲わないように見張るのが仕事なのね。けれど、少年はその仕事が退屈だった』
 先生はそう言いながら、炯子を見た。あなたのために話しているのよ、そう恩に着せるような視線だった。
『それで、あるとき少年は考えたの。「狼が来たぞ!」――そう村に向かって叫んだら、村人はどんな反応をするだろう? 考え始めるとわくわくして、少年は叫んだ。「狼が来たぞ!」』
 最高に面白い冗談だ。炯子は、つい話に引き込まれた。
『村人はパニックになった。羊を囲いに入れたり、家の中に逃げ込んだり。それを見て、少年は大笑いした』
 うわあ最悪、誰かがつぶやく。先生はそれにうなずくと続けた。
『あのパニックがもう一度みたい。少年はもう一度「狼が来たぞ!」と叫んだ。また村は大混乱。それがもうおかしくておかしくて、少年は次の日も、また次の日も叫んだ。「狼が来たぞ!」。けど、そんなことが続くうちに、村人たちはこれはおかしいと思い始めた』
『だって嘘だもんな』
『信じるわけないじゃん』
『そう。少年の話を聞いてくれる人は誰もいなくなってしまった。けれど、ある日、今度は本当に狼が現れた。慌てた少年は叫んだ。「狼が来たぞ!」。けれど、誰も少年の言葉を信じずに、羊はみんな食われてしまいましたとさ。おしまい』
 先生が改めてクラスを見渡す。
『だから、嘘をついちゃいけませんよ、そういうお話。……はい、わかったら帰りの会はお終いよ。また明日ね、さよなら』
 先生、さようなら、クラスメイトたちは口々に言い、廊下に飛び出す。
 笠原絵美と渡辺心桜が炯子を睨み付けている。けれど、そんな視線を感じながらも、炯子もランドセルを背負うと、うきうきと下駄箱に向かった。
 狼が来たぞ! だなんて、なんて面白い冗談だろう。
 炯子の気分は最高で、彼女はスキップをしながら家まで帰った。
 次の日から、炯子はクラスメイトに「狼少年」ならぬ「狼少女」と呼ばれ始めた。
 しかし、彼女はそんなことは気にしなかった。むしろあの面白い話にちなんだあだ名に、嬉しささえ覚えていた。
 あだ名は、この小さな田舎町にあっという間に広まった。
 そして炯子が中学へ上がるころには、そのあだ名は彼女を表す最適な言葉として、町中の人々の知るところとなった。

「ただいま」
 家に帰ると、妹の華子がぼうっとテレビを見ていた。五人組のアイドルが日本全国、様々な地域の学校を訪問するという番組だ。
「知ってる? さっきその人たちの乗ったロケバスが事故って、みんな死んじゃったらしいよ」
 無論、冗談だ。
 けれど、華子は画面を見つめたまま、ぴくりとも反応しない。
「華子、いま死んだ人見てるんだよ? それ、録画だから」
 続けて言ってみたが、全く反応はない。
 まるで本当に死んだ人間みたいだ。
 炯子はまたつまらなくなって、部屋に行くと制服を着替えた。
 炯子には父親がいない。母親もいない。いるのは、母方の祖母だという死にかけの老人だけだ。
 つまり、この狭い町営住宅に住んでいるのは、死んだ人間みたいな華子と、死にかけの祖母と、生きている炯子の三人だけ。
 そのせいで、この家は近づくと死臭がすると、近所の人が言っていた。
 その人は、ゴミ捨て場を自分の所有物のように監視しているうるさい老人だが、時々こういう面白いことを言う。
 いつもしかめっ面をしているほかの近所の人たちや、学校の先生やクラスメイトとは大違いだ。
 彼らは、炯子が何を言っても奇妙な顔をする。すべてに無反応な華子よりはましなのかもしれないが、それでもつまらない人間たちだ。
「おばあちゃん、生きてる?」
 ただいまの代わりにそう言うと、炯子はこの家で最も死臭の強い部屋を覗いた。
 祖母の部屋だ。
 そこは足の踏み場もないほど散らかっていて、死臭とは違う、異臭もする。
 もしかしたら、祖母は犬猫のようにここで用を足してるんじゃないかと思えるほど。
 鼻をつまんで答えを待つと、ベッドの上の布団がもごもごとうごめいた。薄暗い部屋に、やぶにらみの目が光る。
「……そういうことは言いなさんなって言っただろう」
「そういうことって?」
「生きてるか、とかそういうことだよ。何度も言ってるだろう」
 ゴホゴホ、咳き込む音。死にかけの身体から、何億という細菌が放たれる。思わず炯子はドアを閉めた。
「そういう態度も良くないよ、人をバイ菌扱いして」
「だってあたし、死にたくないもん」
「だからそういうことを言うなって、何度も――」
「ねえ、お金ある? 夜ご飯買ってきたいんだけど」
 用を伝えると、祖母は黙り込んだ。それから、小さな声でつぶやく。
「……台所にお金を置いといたから、それで買ってきな」
「声が小さい。ちゃんと聞こえるように言った方がいいよ」
 炯子はそうアドバイスすると、台所にとって返した。
「あんたは本当に母親そっくりだよ……」
 祖母のつぶやきは、彼女の耳には届かなかった。

「いつも大変ね、お母さんはいつ帰ってくるの?」
 ポテトサラダに天津飯、値引きされた幕の内弁当、いつもの品を抱えて並ぶと、レジの店員が声をかけてきた。
 この時間のスーパーは空いている。レジでのおしゃべりに文句を言う人はいないし、無粋な知り合いにも会わない。
 近所や学校の人たちは、炯子と目が合うと彼女を避けるようにどこかへ行ってしまう。気楽に冗談を言い合える相手は、炯子のことを知らない人間しかいなかった。
 西森美紀、ネームプレートにそう書かれたこの店員もそうだ。彼女は先週レジに入ったばかりの新人で、炯子の話を聞いてくれる数少ない人間だった。
「それが、今日帰ってくるって話だったんですけど――」
 炯子が言うと、西森美紀の顔がぱっと明るくなる。そのタイミングを見計らって続ける。
「大事な仕事が入っちゃって。半年くらい延びそうなんです」
「そう……残念ね。でも、気を落とさないで」
 明るかった顔を、まるで自分のことのように沈ませる。
 ああ面白い。炯子は背中がぞくぞくした。
 冗談に真面目に反応する人の顔は最高だ。
「今度はどこでお仕事なの? いままではニューヨークだったんでしょう?」
「ええ、ウォール街で」
 冗談はすらすらと口から滑り出す。
「ずっとアメリカにいたんですけど、けど今度はヨーロッパだって。一からイギリスの支社をつくるらしいです。世界中から精鋭を集めて……母も精鋭の一人ってわけですね」
「炯子ちゃんのお母さんって、本当にすごいんだね」
「いえいえ、そんな。家にいるときは、本当にただのお母さんだから。すごいって言われても、あんまりピンとこないかも……」
「そんなことないよ、すごいよ。いいなあ、そんなお母さん。……あ、でも帰ってこないのは寂しいかもしれないけど」
「まあ、それはそうですね。こないだなんかも――」
「あ、いらっしゃいませ」
 せっかくの会話が、レジに来た客に遮られる。
 ごめんね、西森美紀が口を動かす。炯子も愛想良く笑うと、店を出ようとした。
「……何がヨーロッパだよ」
 そのとき、客の声が背中に聞こえた。何ですか、西森美紀が聞き返す。
「あの子の母親がヨーロッパだって? とんだ嘘っぱちだよ」
「え、でも……」
 西森美紀が炯子の方を見る。
 すると、その見知らぬ客はまるで炯子に聞かせようとでもいうように、声を張り上げた。
「あの子の言うことなんか、針の先ほどだって信じちゃだめだよ。あれはここらじゃ有名な嘘つきなんだ。母親なんかとっくに死んで、いまじゃ婆さんが年金であの子らを養ってんのさ。まったく、中学生にもなって嘘ばっかりついて、この先どうするんだろうねえ」
 悪意に満ちた眼差しが向けられる。それから西森美紀の見開かれた目。
 彼女はもう炯子の冗談に付き合ってはくれないだろう。
 冗談を嘘と言われたことよりも、いまはおしゃべりの相手を失ったことの方がつらかった。
 炯子はため息をつくと、家までの道を急いだ。

 家に帰ると、華子はまだテレビ画面を見つめていた。
「ほら、天津飯買ってきたよ」
 冷たいまま、机の上に出す。すると、華子はやっと視線を夕飯に向けた。
「ああ、やっぱまだ生きてたか」
 冗談を言ってみたが、華子はやはり反応しない。プラスチックのスプーンを、まるで義務のように上げ下げするだけだ。
「つまんないの」
 言葉に出して言うと、炯子も三つも買ってきたポテトサラダを机に並べる。
 物心ついたときから、同じ食事。だからだろうか、華子は天津飯しか食べないし、炯子はポテトサラダしか食べられない。
 祖母は何でも食べるのかもしれないが、最近は割引の弁当ばかりだ。
 小学校の時は給食で苦労したが、中学へ上がると弁当になり、それも食べていなくても小言を言われることがない。炯子には有り難い環境だ。
 天津飯しか食べないどころか、まともな反応をしない華子はというと、幼稚園も学校も行かずに、生まれたときからこうしてぼんやりテレビを見ている。
 不自由はないだろうが、冗談一つ言わずに生きているのはつまらなくないのだろうか。
 ときどき炯子はそう思うが、華子がそれでいいらしいので放っておいている。
「おばあちゃんは? 死んだ?」
 一日中寝たきりだが、夕飯の時間にだけは起きてくるはずの祖母が姿を見せない。
「本当に死んだ? あ、そういえばさっき死んじゃうよおっていってたかも」
 華子の顔を覗き込むようにそう言ってみる。
 しかし、やはり反応はない。
 つまらない。
 炯子はポテトサラダを一気食いした。華子と同じように黙ってテレビを見た。
 画面にはたくさんの人々が映っていた。この田舎町ではとうてい考えられないほどのたくさんの人間。
 東京だ。
 炯子はじっとそれに見入った。
 その夜は布団に入らず、華子とテレビの前で寝た。つけっぱなしのテレビのせいで、いつもとは違う夢を見た。

 次の日。
 学校から帰ると、やはり華子はぼうっとテレビを見つめていた。
 机の上には、まだ昨日の幕の内弁当がある。
 おかしいなあ、そう思った、またその次の日。幕の内弁当はまだ手つかずでそこにあった。
「ねえ、おばあちゃん、本当に死んだんじゃない?」
 華子に冗談を言うが、通じない。
 すると次の日、まだ弁当はそこにある。どこから来たのか、ハエが弁当の透明な蓋にとまっている。
 そこにおいしそうな弁当が見えるのに、食べられない。無力なハエがおかしくて、炯子は笑った。華子は笑わなかった。
 その次の日。弁当からは完全なる腐臭がした。ハエも心なしか増えている。
「しょうがないな、もう……」
 夕食を買う金はそろそろなくなりそうだった。また祖母にもらわなければいけない。
「おばあちゃん? 死んだ?」
 炯子は部屋のドアを開いた。
 うわん、耳障りな音がして、ハエが一斉に飛び立った。そこに祖母がいたのだと気づくまでに少しかかった。
「どうしよう……」
 炯子はつぶやくと、タンスに目をやった。
 祖母の通帳はそこに入っているはずだった。どうやって金を下ろすのかは知らないが、やってみなくては今夜の夕食が食べられない。
 顔にまとわりついてくるハエを追い払いながら、炯子は通帳とハンコを探った。
 あった。中を開いてみると、年金という名目の金が振り込まれている。
 ほっとしたそのとき、玄関でインターホンが鳴った。
「はーい」
 部屋にハエを押し込めるようにしてドアを閉め、玄関に出る。すると、二人組の中年女性が立っていた。
「すみません、この家から変な臭いがするという通報があったんですけど」
 保健師と名乗った女性は鼻をうごめかすようにして臭いを嗅ぐ。もう片方の女性は炯子を見て微笑んだ。
「えっとお母さんか誰か、いらっしゃるかな?」
「母はいま――」
 炯子は値踏みするように女性を見上げた。その微笑みが崩れないことを確認する。――この人は、おしゃべりの相手になってくれる人だ。
「すみません、母はいま出かけているんです」
「お出かけ? すぐに帰ってくる?」
「いいえ、それはちょっと……」
 言い淀むようにすると、女性は炯子の目を見た。興味を引いた、嬉しくなり、炯子はいつものように話し出した。
「実は、母の実家で不幸があって。でも、急だったもので、私たちには留守番をしてるようにって。あ、あそこにいるのは妹ですけど」
 玄関から見える華子の後ろ姿を振り返ってみせる。
「妹はおばあちゃん子だったんで、もうずっと泣いてて……ずっと慰めてるんですけど」
「そう。大変ね」
 女性は炯子の冗談に付き合ってくれるようだ。
 あれ以来、レジの西森美紀は炯子を避け、ろくに目も合わせてくれなくなった。おしゃべりに飢えていた炯子は水を得た魚のようにしゃべりまくった。
「母は帰ってきませんけど、父なら夜に帰ってくると思います。とはいっても、最近は会社に泊まりっぱなしの生活なので、本当に帰ってくるかわかんないんですけど……何か父の会社が他の企業を買収するらしくて、その準備が忙しいとか。ニュースになってるの知りません? あの会社なんです、うちの父が勤めてるの。私、もう一ヶ月くらい父に会ってないんですよ。顔も忘れちゃいそうって言うか、あ、でも電話はすごいしてくれて――」
「ああ、じゃあわかりました。またお母さんのいらっしゃるときに出直しますね」
 臭いを嗅いでいたほうの女性に遮られ、炯子はしぶしぶ黙った。
「そうですか? でも母が帰るのはいつになるか……」
「あなたたちを置いてそう何日もご実家に戻られないでしょ? また明日来ますから。それじゃ」
 踵を返すと、もう一人の女性を促して出て行く。
 つまらない。
 せっかくできたおしゃべりの相手をとられて、炯子はふくれた。
 つまらない、つまらない、つまらない。
 学校にも、スーパーにも、近所にも、炯子の話を聞いてくれる人はいなくなってしまった。
「ねえ、華子、あんたが話してよ」
 妹に話しかけてみるが、やはり彼女も反応をしない。ハエにまみれた祖母だって、もう炯子の声に返事すらしてくれないだろう。
 ――狼少年の話を聞いてくれる人は誰もいなくなりました。
 小学校の時に聞いた童話の一文が、ふいに頭に浮かんだ。
 羊飼いの小さな村。彼らは狼少年の冗談に飽きてしまったのだ。
 狼少年は孤独になった。この小さな田舎町で、おしゃべりを聞いてくれる人がいなくなった炯子のように。
 華子は相変わらずテレビを見つめている。その画面にはまたあの五人組アイドルが映っている。
 何もかも変わらない日常。退屈さを極めたこの小さな田舎町。
 どうして他の人間たちは、飽きないのだろう――炯子は考えた。すると、ふと頭にたくさんの人間の姿が浮かんだ。
 テレビで見た東京。炯子のことを知らない、たくさんの人々。
 いや、あれだけの人すべてが炯子のことを知るなど、どう考えても不可能だろう。
 東京。
 通帳とハンコを握りしめた手が震えた。
 東京。東京。炯子の話し相手になってくれる、また見ぬたくさんの人たちが暮らす大都会。
 ぶうん、まるでそこが開かれることを知っているかのように、一匹のハエが玄関に止まる。
「……夕ご飯買ってくる」
 炯子はつぶやくと、外に出た。自由になったハエが夕焼けに飛んでいく。
 その黒い小さな虫に導かれるように、炯子はふらりと歩き出した。
 狼少女は生まれた町を捨て、東京行きの電車に乗り込む。
 隣に座った見知らぬ乗客と冗談を交わし、夜にはネオンの海に降り立つだろう。そして、故郷の町がどんなにちっぽけだったか思い知る。
 その小さな背中が路地裏に消えていく。
 そして、それからあとはどうなったのか。
 その行方は誰も知らない。
 けれど、故郷でどんな噂が流れようと、その大都会の片隅で、彼女はたくましく生きていったに違いなかった。